Il faut cultiver notre jardin

フランス近世史・革命史・フリーメイソン史研究に関するブログです。新刊情報などをまとめています。

【紹介】ナシエ「16世紀から18世紀フランスにおける暴力とその衰退」

ミシェル・ナシエ「16世紀から18世紀フランスにおける暴力とその衰退」『名古屋大学法政論集』253、2014年3月、99-122頁。
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/handle/2237/19854

2013年10月に来日されたMichel Nassietによる講演が翻訳され公表されました。本講演はおおむね2011年に出版されたLa violence, une histoire sociale (France, XVIe-XVIIIe siècles), Seyssel, Champ Vallon, 2011の概要を紹介するものとなっていますが、未発表の成果も含まれます。冒頭に監訳者の石井三記氏による紹介と講演時になされた質疑応答が付されています。

 15世紀にいたるまで西ヨーロッパ諸国家においては暴力が蔓延していましたが、近世を通して減少していきます。こうした暴力の減少は何故生じたのでしょうか。近世フランスの事例からその原因を複合的に考察することが本稿の目的です。こうした暴力の歴史は、マックス・ヴェーバーによって提起された国家権力が合法的権力を確立する過程という課題、ノルベルト・エリアスによって展望された「文明化の過程」という問題にも連なります。

目次
1.いまだ暴力がはびこる16世紀
2.16世紀における暴力の原因
3.名誉に起因する暴力
4.16世紀後半における暴力の過激化
5.暴力減少の過程
6.「文明化の過程」理論
7.国家の行為による暴力の減少



 まず最初に「いまだ暴力がはびこる16世紀」フランスにおける個人間の暴力の性質について述べられ、こうした暴力に対する認識が現代のわれわれとは違い、許容されうる行動の境界が異なっていたことが確認されます。例えば、「平手打ち」は身体的暴力というよりも侮辱として見なされていました。社会的に上位にある人物から平手打ちされた場合には、ぶたれた本人はそれを容認ていました。一方、身体的な暴力であるはずの平手打ちよりも、言葉による侮辱は受け入れがたいものでした。侮辱は名誉を毀損するものであるからです。侮辱に対する仕返しは正当なものでありました。

 続いて16世紀における暴力の原因が以下の5つの要因から説明されます:刑事裁判がモデルとなっていたこと、戦争の身近さ、領主の農民支配の基盤が暴力にあったこと、大多数の男性の武装、「名誉に起因する暴力」。
 刑事裁判で科される刑罰は身体的な「体刑」で、多くの犯罪が絞首刑や斬首刑によって罰せられ、それほど深刻でない場合は鞭打ちでした。パリの高等法院(パルルマン)管区において刑事裁判から暴力が減少していくのは16世紀半ば以降になります。封建的な領主同士の戦争は15世紀末になくなりましたが、国家間の戦争は近世を通して都市や農村の住民を脅かし続けることになります。戦争の身近さは、共同体の防衛を天職とする貴族の存在を正当化しましたが、戦場における暴力を社会に浸透させる結果をもたらします。領主の農民支配の正当な手段は領主裁判権にもとづくものですが、16世紀には依然として暴力による支配が行われていました。帯剣を認められたのは貴族だけでしたが、16世紀フランスにおいてはほぼすべての男性が何らかの武装をしていました。 

 近世フランス社会に生きる人々は名誉に対する感受性を強く保持したことはよく知られています。彼らは言葉による侮辱を受けた場合、共同体における自らの地位、家や帰属する集団の名誉を回復するために応戦しなければなりません。復讐が暴力的な行為による侮辱へとエスカレートすることも少なくありませんでした。
 国王は早くも1546年の王令によって貴族の復讐を禁じておりましたが、復讐の慣習は17世紀まで残存します。復讐においては、損なわれた家の名誉を挽回することが重要でしたので、報復も「個人」を罰するというよりは、二つの集団の間の均衡を回復することに重きが置かれました。また、王権による司法において復讐は比較的寛大に扱われ、1560年代においてもまだ許されていました。
 
 16世紀に暴力は過激化します。1530年代における火縄銃の普及、1550年代におけるピストルの普及に加えて、1560年代以降、決闘が貴族の間で流行します。決闘は3対3の同人数同士の儀式化された闘いで、戦闘方法も合意に基づくものでしたが、二つの新しい慣行が導入されることによって死者数を増加させることになります。若い貴族による加勢とシャツ姿での戦闘です。
 16世紀はまた宗教戦争の時代でもあります。宗教戦争はフランス社会の「暴力化brutalisation」を加速させます。1562年から1598年にいたるまで8次の戦争が繰り広げられ、1572年のサン=バルテルミの虐殺に代表される「神聖な」暴力が頻発します。また個人(家族)間の侮辱と復讐が宗教対立に発展するケースも少なくありませんでした。反対に、宗教上の対立に由来する残忍な行為が個人間の暴力のモデルとなることもありました。

 
 16世紀における暴力の特質と過激化を踏まえた上で、17-18世紀における暴力の減少が質的・数的な観点から確認されます。まず、幾つかの行動がフランス社会から姿を消します:法の執行者に対する襲撃、集団的強姦、親族集団同士の殺し合い、浮気した妻に対する殺人。また、フランスでは16-17世紀の裁判記録の紛失から人口に対する殺人の比率に関して正確な統計は難しいそうですが、西ヨーロッパ全体と同様に、減少傾向にあったと推察されます。
 こうした暴力現象の減少はどのように説明されるでしょうか。社会学者のノルベルト・エリアスは1939年に出版された古典的著作において、①国家発展と②個人の自己統制能力の発展という二つの事実から暴力現象の説明を試みています。
 近年の歴史学研究の成果は、暴力の源泉を個人の「欲動」に置く見方に異議申し立てをしています。近世の対決は、決闘によく見られるように、儀礼的な性格を帯び、同一のシナリオに従って行われます。16世紀の人々は自己制御能力を欠き、欲動によって反応していたのではなく、彼らが共有する行為規範にしたがって行動していたのです。エリアスに従って、習俗の文明化過程の出発点に暴力的な本能が支配する野蛮な状態を措定することはできないのです。加えて、エリアス的な観点においては、暴力が社会的現象によっても動機づけられることを見落としてしまいます。ナシエによれば、暴力によって社会集団の名誉を守るという動機に注目することによって、17-18世紀フランスにおいて殺人が減少したのは、親族関係の希薄化と名誉の相対化に由来するのではないか、という展望が開かれます*1

 最後に暴力減少における国家行為の役割が検討されます。15世紀には復讐殺人は正当なものとして認められていましたが、王権は1539年、1546年、1547年の王令によって偶発的な殺人か正当防衛しか許容しないと定めます。これらの法令は当初尊重されることはありませんでしたが、次第に長い年月をかけて国王裁判所の効力が発揮することになります。決闘に対する規制も17世紀には効果があらわれます。1602年の最初の決闘禁止令以降、幾つかの政策上の変転を経て、ルイ14世は1651年の王令によって死刑という厳罰と予防策をもって決闘を根絶しようと試みます。フロンドが終結し、国王の権威が回復し、太陽王が親政を開始すると、王への服従を理由に貴族たちは決闘を拒否することができようになります。以後、決闘は完全に消滅することはありませんでしたが、非合法化され、隠れて密かに行われるようになりました。
 こうして決闘が正当性を失った事により、正当な暴力は王権が独占することになり、公衆の面前で暴力によって名誉を守るという論理も消滅します。王権は、名誉は暴力によってではなく司法によって守られるという観念を普及させることに成功したのです。
 




 

*1:「16-18世紀におけるフランスの社会―名誉のある社会」『関西学院史学』41号を参照とのこと